LOGIN「白石さんは、システム関係のお仕事なんですよね?」ポテトサラダを口に運びながら、凛は尋ねる。「…システム開発って、未経験でも出来ますか?」凛は意を決して切り込んだ。「一条さん…」白石は察した。凛が就職活動をしているのは知っている。そして…神崎家を追われた者が、この雲城市で職を得るのは、容易で無いことも。(力になりたい…)初めて出会ったあの日、思わず口を突いた言葉に偽りは無かった。今も同じ気持ちである。しかし…「…正直に言うと、難しいかもしれない」気休めを言うのは不誠実だと感じていた。白石の表情が曇る。声もしゅんとしていた。「お、教えてくださって、ありがとうございます!」凛は沈んだ空気を打ち消すように、明るく言った。「白石さんは、大学で情報処理を専攻していたんですよね。高い専門性が求められると知りながら、申し訳ないです!」(…問題はそれだけではない…)白石も凛も、喉に引っかっている言葉を、チキンカツと共に飲み込んだ。「…一条さんは、前の会社以外に職歴はないの?」「学生時代、引っ越し屋のアルバイトをしていました」「引っ越し??」華奢な凛の姿からは想像が付かない。「はい!家具を運ぶのは全力外だったんですが、お皿を梱包したり、お洋服を梱包したり…意外と出来ることはあるんですよ」凛は生き生きと話した。「…一条さん、本当に仕事熱心なんだね」白石は心から敬意を表した。凛は耳を赤く染める。「ありがとうございます。引っ越し屋は、大学の先輩が企業してやっていたんです。今も…やっていて…シェアを伸ばして…」凛は、ハッとした。白石も頷く。「…電話してみます、先輩に!」***神崎家の屋敷は、高台にあった。ホールからは雲城市の夜景を一望できる。その屋敷の書斎に、神崎怜は佇んでいた。「まだ脅迫は続いているんだろ?垂水、見せろ」「…はい、こちらでございます」黒い封筒に入った手紙が、夥しい量、届いていた。「…黒い封筒か。あからさまだな、黒蛇会は」「牽制を狙ってのことでございましょう」怜は1通1通、目を通す。「…新規事業から手を引け、というところか」「…趣旨はそのようです」「は!くだらんな」「しかし、ご用心くださいませ」「…何をだ?脅迫に屈しては、何も成し遂げられないぞ?」「本懐を成し遂げるための、ご用心でござ
「…意外と人を大切にする人ではあったのよね、神崎怜は」凛は鶏肉を揚げながら呟いた。結婚式から2週間。新しい生活にも慣れて来ていた。時計を見る。時刻は18時30分。「あと、30分…ポテトサラダでも作ろうかな」連絡が無ければ19時に夕ご飯を一緒に食べる。それが白石と凛のルーティンになっていた。「ーーメシ友」そう。二人はメシ友だった。恋愛関係はなく、ただ1日の終わりを、食事を共にして締めくくる関係。「便利な世の中よね。恋愛なんて、要らないんじゃないかしら」一緒に食事をして、他愛ない話をして、「また明日」と言う。それだけで十分楽しい。少なくとも今の凛には、恋愛よりずっと現実的だった。19時。404号室を訪ねる。「こんばんは。一条さん」部屋の明かりがこぼれ、白石が明るい声で迎えた。「おじゃまします」凛は部屋に上がると、ダイニングテーブルに持参した惣菜を置き、洗面台に向かった。間取りはすっかり把握していた。「え、これ、チキンカツ?!」白石の声が弾む。「そうですよー!」凛は洗面台から答えた。「うわー!美味しそう!じゃあさ、ちょっと待っててよ」凛がダイニングキッチンに顔を出すと、白石は、キャベツを取り出したところであった。「ふふふ。実は、オレ、キャベツの千切りだけは得意なんだ」白石がはにかむ。木漏れ日のような笑顔が溢れた。「へー!羨ましいです!」「…ごめん、自分でハードル上げすぎたかも。まあ、見てて」キャベツをストンと切り割ると、柔らかい方からスッスッスッと包丁で細かく切っていく。まくった袖から覗く腕は、細身ながら逞しい。「すごい、レストランみたい…」白石はどんどんスピードを上げる。トントントントンとまな板を叩く音が心地よい。あっという間に、山盛りの千切りが出来上がった。「レモン汁とサッと和えると、チキンカツによく合うと思うんだ。残りはコールスローにして、明日食べよう」「わー、本当に美味しそう!」「お腹空いたよねー。食べよう、食べよう!」2人は和気藹々と、手際よく食卓を整えて行った。* * *「白石さんは、システム関係のお仕事なんですよね?」ポテトサラダを口に運びながら、凛は尋ねる。「…システム開発って、未経験でも出来ますか?」凛は意を決して切り込んだ。
ベージュのパンプスは、変わらず優美な曲線を描いていた。(こんなに綺麗な靴、なんだか烏滸がましいわ・・・)凛は耳を赤らめながら指先を入れる。ソールは吸い付くように足裏に馴染んだ。「このような服装を予定しております」凛は説明しながら椅子から立ち上がる。(私じゃないみたいーー)鏡の中には、優雅に佇む自分の姿があった。怜は腕を組んだまま黙っていた。ノースリーブから覗く白い肩に、怜の視線が一瞬だけ止まる。「……」「何か、おかしいですか?」「……いや」(目に毒だな)怜は凛から視線を外した。「……寒くないか?」「え?」「会場は冷房が強い」それ以上何も言わなかった。凛は怜のチェックが無事に終わったことに安堵した。(神崎役員は本当に仕事熱心な人なのね)凛の口元から笑みがこぼれる。服装のせいか、いつもより少し堂々と、大胆になっている……しかし、そんな自分が嫌ではなかった。立ち姿をさらに確認してもらおうと、足を踏み出す。一歩、二歩。歩み始めた瞬間ーー「あ!」ヒールが揺れ、凛はバランスを崩した。そしてーー「危ない!」怜は鞄を投げ出し、駆け寄った。遠くでドサリと音がする。鞄が地面に付いた音であり、怜が膝を付いて凛を支えた音でもあった。(え……あれ……??)凛は、怜の腕の中にいた。ドッドッと早く脈打つ心臓の音が重なる。薄い肩を抱く腕は、力強く、温かかった。「はあ…良かった」怜は深くため息を吐き、凛を椅子に腰掛けさせた。「ケガは?」「だ、大丈夫です……」凛は赤面して項垂れた。恥ずかしくて、一刻も早く帰りたかった。怜はスッと立ち上がると、視線を垂水に向けた。「歩けない靴では困るな」怜は当然のように言った。「それから、ジャケットも。彼女はプロフェッショナルだ。男がスーツなら、彼女もそれに見合う格好をするべきだろう」店内は静まり返った。凛だけが、なぜ自分のためにそこまでしてくれるのか、分からなかった。けれど、不思議と居心地は悪くない。神崎怜は、凛にとってーー
「一条様、間もなく、神崎が到着いたします」垂水が告げて間もなく、店内はざわめき立った。上品な足音が慌ただしく行き交う。そして——1つの足音が、真っ直ぐこちらに向かっていた。「こちらでございます」店員に案内され、足音はドレスルームの入り口で止まった。中に入ってくる気配はない。(え、え、どういうこと——!?)凛だけが状況を理解していなかった。「ふ……自分から入るのは、気恥ずかしいのでしょう」垂水は柔らかく笑う。「お待ちしておりました、怜様」そう言って、扉を開いた。店内の人々は、自然と左右に分かれた。誰も命じていない。それでも、一人の男が歩くためだけに、空間ができていた。そこに、神崎怜が立っていた。「どうぞこちらへ」垂水は怜を奥へと案内する。「展示会場に合わせて、シンプルながら華やかなワンピースをお召しいただく予定です。 いかがですか?」手を差し示した先には——淡いピンクのドレスを着た、凛がいた。(え……?)凛は引き寄せられるように、怜を見つめた。怜は驚いたように、凛を見つめ返す。2人の視線が絡る。ドレスルーム内は、一瞬で静寂に包まれた。(……見ていらっしゃる……私のことを……)凛は困惑した。今日は分からないことばかりだ。事業発表会の打ち合わせだと思ったら百貨店に連れてこられ、ドレスアップをさせられ、そして今、神崎怜が目の前にいる。視線はとても穏やかだった。ただ、少し、驚いたようだった。(なぜかしら?)凛は視線を落とした。すると——目に入ったのは、いつもの自分のフラットシューズだった。「あ!こ、これは……!!」凛は慌てた。「靴は、当日はベージュのパンプスを合わせていただいておりまして! ちょぉっと自分の靴を履いているだけでございます!!」《ちょぉっと》の部分で声が裏返る。凛は、今なら、神崎怜の前で語尾を噛んでしまう事業部長の気持ちも、バネ玩具のように首を縦に振り続けていた上司の気持ちも、よく分かった。「……」神崎怜は黙っていた。ドレスルーム内は、再び静寂に包まれる。「履いてみろ」「え?」「お靴でございますね。ご用意いただけますか?」垂水は店員に指示を出す。店員はすかさずパンプスを持って来た。怜は、何も言わない。しかし、その視線だけは、凛の足元から離れなかった。
「よくお似合いでございます、一条様」垂水は朗らかに言った。「あの、なぜ、私がこんなドレスアップしているんでしょう?」凛は困惑しながら、鏡に映る自分を見つめた。「それは……雲城市一の展示会場での、新規事業発表会でございますから」垂水の返答は、返事になっているようで、凛の質問に何も答えていなかった。「え?!もしかして、イベント・コンパニオンとかやるんですか!?私が!?」「滅相もない話でございます」垂水はピシャリと言い放つ。(あ、それは違うんだ!?)凛は急に恥ずかしくなった。「着信が……少々、失礼致します」垂水はそう言うと、店員に一言声をかけて席を外した。「本当によくお似合いでございます。こちらのドレスでよろしいでしょうか?」店員は改めて凛に確認した。「はい……ありがとうございます」言われてみれば、そのドレスは凛の雰囲気によく合っていた。上品でシンプルなデザインながら、華奢な身体が貧相に見えない。淡いピンクの生地は、凛の透き通るように白い肌に、ほんのりと彩りを添えていた。合わせて見繕ってもらったベージュのパンプスとのコントラストも美しい。問題は——値段が全く分からないことだ。パンプスのヒールは、ため息が出るほど優美な曲線を描き、女性なら誰もが憧れる赤いソールを有していた。(つまり……価格もため息が出るほどってことよね……)凛はゴクリと唾を飲み込んだ。「それでは、お包み致します。お着替えはこちらです」案内しようとする店員におずおずと伝える。「……あの、私、今日は持ち合わせが少なくて……」本当は、こんな商品を気ままに買う持ち合わせなんて、常にない。気まずそうに伝える凛に、店員は明るく答えた。「お品代はすでに頂いております。 他のお品も宜しければいかがですか? ご所望があれば、何なりとお包するよう、言付かっております」「え?」そう言った瞬間、凛は慣れないハイヒールにバランスを崩しかけた。「大変失礼致しました!お靴をお出しいたします。」店員は凛の靴を差し出した。歩きやすい、底の剥がれかけた、量販店で購入したフラットシューズだ。「あはは……ありがとうございます」凛は恥ずかしそうに足を通す。(……あれ?)「ソールが、直ってる……??」凛は呆気に取られていた。「リペアを言付かっておりましたので。お着替
「……はい、一条です。はい、垂水様。 お世話になっております。 ……はい、新規事業発表会の準備の件ですね。 スケジュールを確認いたします。 少々お待ちください」神崎役員への説明から数時間後、垂水と名乗る男性から電話を受けた。(準備は垂水と話してくれ)新規事業発表会に来るよう指示した神崎役員は、確か、そう言っていた気がする。「はい、本日午後は16時以降であれば打ち合わせ可能です。 場所は・・・いえ、そんな、送迎など、お気になさらず・・・はあ、では、お言葉に甘えさせていただきます。16時に弊社1階車寄せでお待ちしております」電話を切った瞬間、ドッと疲れが出た。(・・・一体、何が始まるんだろう・・・)見当も付かない、大きなことに巻き込まれているーーそんな気配を、凛は感じていた。***「間もなく到着いたします」垂水と名乗る初老の男性は、朗らかに凛に伝えた。黒塗りの高級車の後部座席。革張りのシートに包まれて、凛は居心地の悪さを感じていた。(ば、場違いだよー!!)足元に視線を落とす。リクルートスーツにフラットシューズ。しかも、靴底は剥がれかけていた。(ははは・・・もう、なんとでもなれ!って感じだわ)今朝、会議室で見かけた役員の姿を思い出す。4、5歳程度年上であろうか。同年代なのに、堂々としていた。(ああいう人は、こういう車で移動するんだろうな)そう思うと、革張りのシートの輪郭も掴めてくる。(あれ?この振動・・・)「この車、ガソリン車でも、EV車でもないですよね?」凛は唐突に話しかけた。「左様です。」垂水は少し嬉しそうに答えた。「燃料は水素でございます。初速が違いますよ」「へー。水素燃料車は初めてです!」凛は、これからの未来にワクワクして来た。(せっかく抜擢いただいたんだもの。やれるだけやってみよう!)……小一時間後。凛は後悔していた。(待って、待って、待って!どういうこと?!)鏡の中には、淡いピンクのドレスワンピースを着た自分が映っていた。垂水は満足そうに頷いた。







